分かりやすい看護師 求人
医療事件では、報道を受けて、すぐに病院側が医師を処罰にかかる。
それがまた警察の正当性を担保する。
医師はなすすべがありません。
密室での取り調べは録音もされず、弁護士も立ち会えません。
自分に不利な供述を拒否したりすれば、脅されます。
医療事件では「自白」するとしばしば略式起訴で済みますが、拒否すると拘留期間が延長され、起訴されてしまう。
一、二審で無罪になっても、検察は必ず最高裁まで争います。
前にふれたように、無謬を前提としているからです。
最高裁まで争えば、人生の大切な時期が十年、場合によっては二十年も奪われます。
争点があって、無罪を主張するほど実質的な罰が大きくなる。
そのために医師は無罪だと思っていても、しばしば罪を受け入れます。
有罪であることが、真にその人間が悪いということを意味しません。
多数の冤罪事件が起きています。
これは、現場の警察官の問題ではありません。
日本の警察の犯罪捜査を支える思想とそれに基づく制度、方法に大きな問題があるのです。
このため、警察官は常に「故意犯罪」を犯しかねない状況に置かれている。
社会からは、組織事故を過失犯罪として取り締まっているのに、身内に対しては故意犯罪まで押さえ込んでいるとみられる。
捜査の現状には無理があります。
冤罪事件の内部情報がもれてくるのは、警察官自身がこれをいやがっているからではないでしょうか。
警察の捜査の方法と論理について、本格的な見直しが必要です。
そのときには、警察に新たな捜査権限を与えることも考慮する必要があります。
付け加えますが、私は警察に対して希望を失っていません。
富山県警が冤罪事件について発表したことを高く評価します。
過失は罪か刑法は社会の保全や安全のため、あるいは、応報のために、個人をその責任ゆえに罰する体系です。
刑法は原則として過失を罪としません。
刑法第三八条一項は、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない。
ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」と規定しています。
業務上過失致死傷は例外規定の一つです。
私は何度か検察と議論しましたが、彼らによると、アメリカには同様の罪はないというのです。
罪刑法定主義というのは、罪はあらかじめ法律で定められていないといけない、決められた罪に対して、相応の罰も決められていないといけない、というものです。
ドイツ系の刑法の原則ですが、業務上過失致死傷はここから遠く離れた規定で、実に広い範囲まで罪になります。
しかも、往々にして、業務上過失致死傷が問われるのは、システム事故です。
最新のヒューマン・ファクター工学では、システム事故で個人に責任を負わせることは安全向上に役立たないとされています。
業務上過失致死傷を証明するには、予見義務、結果回避義務に違反があることを示すだけでよい。
結果を予見できたのに、それを回遊しなかったことが罪だとします。
証明の論理でみれば、業務上過失致死傷と民事上の不法行為には本質的な差はありません。
しかし、医療は人の身体を扱うという性質上、過失は傷害に直結します。
このため民法第七〇九条(不法行為による損害賠償)で訴えることができる事例は、業務上過失致死傷で刑事訴追できることになる。
刑事事件にするかどうかは、担当官の判断にゆだねられる。
このような重要な決定について、法律による裏付けがありません。
恨みの強さとメディアからの非難が、刑事訴追についての判断を左右しているようにみえます。
近代法の特徴は、その定める規範が、倫理・道徳と分離されていることですが、日本では世間がどの程度騒いだかによって、犯罪にするかどうか決めているようにみえます。
しかも法廷での人間のとらえ方が表層的で、人間の行動についての深い洞察に欠けている。
現実の医療現場を知らないまま、頭の中で架空の医療現場を想定して、大衆メディア道徳とでもいうべき現実と無関係の倫理に違反することを有罪の根拠にしています。
しかし通常の医療についてまでこうした判断をするのなら、いっそ明文化したらいいとさえ思います。
医療の結果が悪くて、被害者感情が強く、メディアの非難が大きいものは業務上過失致死傷罪にする、と決めてしまう。
これでは、医療を引き受ける人間がいなくなります。
もっとも、そんな法律は文明国家にあり得ませんが。
大衆受けのする考え方を武器に、大衆向けのメディアの応援を得て、感情が法であるがごとき判断を司法がすることに医師は恐怖を覚えているのです。
架空の「免許皆伝モデル」ある知人の弁護士が、「医師が初めての医療を指導者なしにやることは許されない」と言いました。
しかし、実際には、創始者がいて、免許皆伝を受けた人から弟子、弟子からまた次へ教え伝える、医療の世界はそうなっていません。
ひとつの手術の広まり方というのはこうです。
まず誰かが最初にやってみる。
詳細な報告が論文になる。
その論文を読んで、あるいは実際にその人の手術をみて次の誰かがやる。
学会で経験者が集まって議論する。
創始者も批判の対象であり、創始者のやり方が無条件に受け入れられることはありません。
創始者が指導に行くこともときにはありますが、ただやってみせるだけで、指導とはとてもいえません。
しかも、新しい技術は創始者も上手ではありません。
他の病院に出向いて手術を行うことは、創始者にとってもきわめて危険なことです。
新しい技術を指導者をよんで教えてもらうということは、制度的には用意されていない。
ですから、同時にいろんな場所で同じことが行われるようにならざるをえません。
通常、創始者より後のグループの中からもっと上手な人が出てきます。
そして回数を重ねるほど、参入グループが増えるほど改善されていく。
法律家は、免許皆伝モデル、とでもいうようなものにとらわれていますが、そんなものはありません。
適切なたとえではないかもしれませんが、猿の群れで、石で殻を割って実をとるような新しい行動をし始めるのは、たいてい元気のいい若い猿です。
群れの中心から離れたところで始める。
それがやがて若い世代から群れ全体に広がって浸透していく。
私自身、医師になって五、六年をすぎた頃から、新しい手術にどんどん挑みました。
もちろん患者に説明はしていても、医師としてリスクを冒しているという自覚はあるし、かなりの精神的緊張を強いられる。
論文と違って個人の業績とはなりませんから、責任感こそあれ、功名心が顔を出す余裕などまるでないのです。
たまたま自分にその能力があるので、やらないといけないと思っていました。
泌尿器科では一九八〇年頃から二〇〇〇年にかけて、新しい手術が次々に開発されました。
私が医師になった七四年当時に行われていた手術は、現在ではほとんど行われていません。
名称は同じでも、内容的にはまるで別の手術になっています。
新しい手術を教育、普及させるようなしっかりしたシステムがあったわけではなく、多くの場合、知力と胆力そして技術を兼ね備えた若い医師が初めて取り組み、広めました。
新しい手術の導入、ひいては医療の進歩には、どうしても少しの背伸びと無理が伴います。
いささか乱暴にきこえるかもしれませんが、初めて行われる手術の黎明期は、誰がやっても下手です。
例えば腹脛鏡下の前立腺全摘除術も、慈恵医大での第一例は、この手術の日本のパイオニアの医師が招辟されて、手術を実施しました。
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